趣味の盆蚕

「しゅみのぼんかいこ」とは、盆栽を楽しむように小規模に養蚕を楽しむという意味で、ブログ筆者の造語です。略称は「ぼんさん」

今日のお蚕

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 育ってます。

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 この砂みたいなものはお蚕の糞です。

 

  江戸時代の養蚕書を読むと、お蚕の世話をする人のことを蚕母(さんぼ)と呼んでいます。女性の仕事だったからでしょう。そういえば祖母の家でも祖父は一番忙しい時期の桑取りを手伝うくらいで、ほかのことはみんな祖母がやってました。

 

 あまりにも昔のことなのでうろおぼえですが、祖母は養蚕をしない家からお嫁に来たようなことを言ってたかもしれません。最初はお蚕さんがこわくてさわれなかったと……いや、もしかすると別の人から聞いた話がまざっているかもしれませんが。

 

 最初は気持ち悪くてさわれなくても、世話をしているうちになぜかかわいいと思うようになるんだよって。やっぱり祖母から聞いたような気がします。まるまる太ったお蚕を手のひらにのせて、そんな話をしてくれたと思います。

 

 わたしは幼児のころからお蚕わしづかみでしたから、お蚕が恐いとか言われても、そんなものなのかなあと、かえって変な気持ちでした。

富岡日記

 『富岡日記』は長野県松代の旧藩士の家に生まれた著者が群馬県の富岡製糸に女工として入場し技術の習得につとめた日々をまとめた手記です。この時著者は十六歳でした。

 富岡製糸というと『あゝ野麦峠』のような話が有名なので、少女たちが命を削りながら劣悪な環境で働いているイメージが先行しますが、少なくとも開場当時は良家の子女が誇りをもって仕事をしていたことがこの本を読むとわかります。

 富岡製糸は日本でもっともはじめに作られた西洋式の製糸工場です。このような工場を日本各地に作ることが国策で決められていましたから、ここで技術を習った娘たちは故郷へ帰って指導的な役割を果たすようになります。

 当時の生糸産業の記録としても貴重ですし、幕末から明治にかけての日本人の心が生き生きと綴られている点でも好著だと思います。

 

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 以下は気に入った部分の抜き書きです。

 信州は養蚕が最も盛んな国であるから、一区に付き何人(たしか一区に付き十六人)十三歳より二十五歳までの女子を富岡製糸へ出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供にでも上がるように思いまして一人も応じる人はありません。父も心配致しまして、段々人民にすすめますが、何の効もありません。やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、中には「区長の所に丁度年ごろの娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」と申すようになりました。それで父も決心致しまして、私を出すことに致しました。

 私も兼ねて親類の娘が東京へメリヤスを製しますことを習いに行きました時、私も行きたいと申しましたが、私より下に四人の弟妹がありまして、中々忙しゅうありましたから許しません。残念に思って居りましたところでありましたから、大喜びで、一人でも宜しいから行きたいと申しました。

 このあと、著者の親しい友人から、われもわれもと志願者が出て、とうとう十六人の女工さんが松代を旅立つことになります。

 

 河原鶴子さんは紫のメリンスの袴にやはり紫の羽織、赤のシャツ、お着物は縞。和田初子さんは黒縞呉絽の袴に同紋呉絽羽織、赤縞ネルシャツ、着物は縞。

 (私の服装は)これが実に珍無類、只今なら丁度ポンチ絵にでも有りそうな形で、どのようにまじめな人でも一目御覧になれば笑わずにはおいでなされますまい。父が辰年の戦争の時、松代藩を代表して甲州の城受取りに参りました時新調致したと申す黒ラシャの筒袖に、紺地に藤色の織出しのある糸織どんすの義経袴、無論紐と裾には紫縮緬が付けてありました。殊に父は二十貫目もある肥満なる人の着ましたものを、そのまま少しも直さず私が着しまして、例の義経袴をはき、赤スコッチのメリヤスを着込み、羽織は祖母から伝わりました真田公より拝領の打ちかけ黒縮緬五ツ所紋(わり洲浜、只今の男子方の御紋ほどの大きさ)、それを羽織に縫い直しまして、私がごくその頃裁縫が下手でありましたから、紋が有って居りませんと人が笑いましたと後で聞きました。

 このようないでたちで意気揚々と富岡へ向かいますが、いざ入場してみると気恥ずかしくなって普通の着物で最初の仕事についたと書かれています。

 当時のことなので移動は徒歩です。籠や馬はあったので疲れると代わる替わりに乗ったようです。馬は鞍の両脇に櫓を組んで二人一度に載せるものだったとか。江戸時代の資料でよく見かけるやつだと思います。明治の頃まであったのですね。碓氷峠にさしかかると道が悪くなり、それでも一行にとっては大した難儀ではなかったようですが「皆一生の思い出に草鞋をはきたいと申しまして大かたはきました」というのが少女らしくてかわいらしい話です。

 

 みな国から故郷の恥にならぬよう、人の後れを取るなと言われて来ていますから、ひっしで技術習得にはげみます。ところがあとからやってきた山口県女工がさきに糸繰り場に配置されて教えを受けているのを見て、悔しさのあまり全員で泣いたというのもたまらないエピソードです。

 また、休憩時間に故郷の盆踊りを披露する話などもおもしろい。今でこそ各地に盆踊りの習慣がありますが、この当時は盆踊りがあるのが名物になりうる時代でした。休み時間のたびに見せてほしいと乞われて、皆で踊るうちに大変な人気になったといいます。しかし、ここでも山口県の女工さんたちがライバルになります。彼女らは密かに練習をつみ、とうとうそれを披露して人気を奪うのです。機嫌を損ねた著者と同郷の少女たちは、頭が痛いの腹が痛いのと言って庭に出ることさえ拒否して寝ているしまつ。

 しかし私は皆に申しました。「どう見ても山口県の踊は高尚でもあり、このようなことでつまらぬ争いをしたところで何の利益も無いことだから、私はこれから見物して、決して国の盆踊は踊らぬ」と申しました。追々同意者ががありまして、これから後、信州の踊は止めました。皆さんはさぞ歯痒いと思いましょうが、このようなことで憎まれたり争ったりして、第一の業にまで障りましては両親に対しても済まぬと心付きましたから、山口県の方々に精力を奪われましても、私共は決して恥ずかしいとも何とも思いませんでした。今から考えましてもよいところで見切りをつけたと思います。

 時には辛いこともあります。著者の仲良しで、著者に次いで志願した少女が脚気になって歩けなくなる話。

「これから直ぐに私はお鶴さんをつれて帰国致したい、碓氷峠を越せば薬をのまずに全快すると国で申しますから、何とぞ願って下さい」

脚気はビタミンB1不足でおこる病気ですから、都会で白米ばかり食べているとかかりやすくなるのです。当時はそういう知識がないので江戸わずらいと呼ばれ、碓氷峠を越せば治る(田舎の食べ物に変わるから)というわけです。お鶴さんは西洋医に見てもらい、帰国しなくとも治ると言われ、そのまま場内で養生してどうにか歩けるようになります。国からお父さんが迎えに来て故郷に帰りました。

 脚気が出ることで毎日白いご飯を食べて暮らしていることがわかりますが、外にどんなものを食べていたかというと

 只今と違いまして上州の山の中で交通不便でありますから、生な魚は見たくもありません。塩物と干物ばかり、折々牛肉などもありますが、まず赤隠元の煮たのだとか切昆布と揚蒟蒻と八ツ頭などです。さすが上州だけ、芋のあること毎日のようでありますから閉口いたしました。朝食は汁に漬物、昼が右の煮物、夕食は多く干物などが出ました。しかし働いて居ますから何でも美味に感じましたのは実に幸福でありました。

 賄い方の怠慢ですえたものが出たこともあったようですが、場内を監督する偉い人が女工たちの食べ物にも気をつかっていたので発覚し、賄い頭がきつく叱られたということもあったようです。

 

 出てくる人たちの服装の描写がいちいち精密なのもたまらない。

 (皇太后陛下・皇后陛下御行啓の下見に来た)その女官の方が越後縮の絣のお帷子を召して、御帯はお下げ帯でありました。これは只今の方はご存知のない方もおありかも知れませんが、白の綸子でありまして、両端が一尺三四寸ほどがだきしんが入って太く六寸廻りほど御座います。それを結んで下げておいででありますから、見なれない者には中々珍しく思われます。お髪は昔の椎茸たぼより一際鬢が派って居ります。曲げは実に小さく、笄は一尺余も御座います。おしろいは真っ白につけておいででありましたから、場内の者残らず内々笑いました。

 女官たちを笑ったおかげで叱られてしまい、明日は福助さんのような人が来るので決して笑わないようにとクギをさされます。

 (御行啓のおりに工場の西洋夫人のいでたちを見て)あれが大礼服と申しますのか、胸と腕とは出しまして、白のレイスのような品に桜の花のようなる模様がありまして、その下にも同じような品で二枚重ね、一番下に桃色の服を着して居ります。その色が上まですき通りますから、その美しい神々しいこと何とも言いようがありません。裾は六尺ほども引いて居りました。そして白ビロウドのような帯を結んで居ましたが、丁度日本の男子のはさみ帯のように並べて立てたようにして居りました。顔には網をかけ、襟飾、腕飾、首飾を致しまして、帽子は白い羽根その他の飾が付きまして、美事なことは筆にも尽くされませぬほどでありました。

 

 その他、故郷に開場した製糸工場で、女工が釜場の男性と間違いをおこさないよう、注連縄をはりめぐらして、婦人が入ると釜場が汚れると言って女を遠ざけた話なども興味深いです。石川県金沢市小立野の小鋸屋という製糸場で、釜場に入ってきた女性と火たき工の男性が話に夢中になり、蒸気元釜が爆発して女工七人と工男が死に、怪我人も多数でたという事故があったそうです。遠ざける理由が女性蔑視的ではありますが、火たきが男子の仕事と決まっているので、女性を遠ざけるのが現実的だったんでしょうね。

那須絹のはじめ(栃木県)

 欽明天皇の御代に、常陸国(茨城県)豊浦の港に権太夫吉林という男がいた。沖で釣りをしていると、美しい姫君が流木に捕まって流れていた。姫には日本語が通じず、隣村の僧侶が梵字を書いて名をたずねたところ、天竺の鱗意大王の娘で金色姫と名乗ったという。権太夫の手厚い看護にもかかわらず、姫は数日後に亡くなった。

 それからしばらくすると、姫の墓から無数の毛虫が現れ、近くにあった桑の木にたかって葉を食べ始めた。二十日ほどすると毛虫はそれぞれに白い巣(繭)を作り、やがて沢山の蛾になって出てきた。

 

 常陸国筑波山に住む宝道という僧侶がやってきて、その虫が蚕であることを教えた。権太夫はよろこんで、虫の卵を僧侶と分け合い大事に保管することにした。

 

 宝道は旅の途中、下野国(栃木県)那須野ガ原の御手山(こてやま)で道に迷ってしまった。そこへ白髪の老人が現れて宝道を池のほとりに案内した。老人に言われるまま耳を澄ますと池の底から音がする。海神の都で竜女が機を織る音だという。

 

 それから宝道は池から現れた大亀にのりさらなる山奥へと分け入った。そこで常陸国で別れた権太夫と再開する。権太夫は沖で遭難し、気づいてみると大亀に載せられてこの山奥にたどり着いたというのである。

 

 これも蚕神の導きであろうと、大事に持っていた蚕の卵を出してみると、すでに毛虫になってうごめいていた。夢まくらに現れた金色姫のお告げで桑の大木をみつけだし、養蚕に励むことになった。

 

 ふたりの寝食は、どこからか現れた小娘が世話してくれた。蚕が繭になると、この娘が糸にする方法や機織りを教えてくれた。ふたりが一通りの仕事を覚えると、

「これにてわが望みは果たしました。わたしに代わって養蚕の道を広められよ」

と告げ、娘は大亀に乗って姿を消したという。

 

『日本の民話5・栃木編』より、要約しつつ抜き書き

類話:金色姫(茨城県)、衣笠姫(群馬県)など

 

# 前半の権太夫吉林が姫を助けるところまでは江戸時代の養蚕指南書である『養蚕秘録』や茨城県にある蚕影神社の縁起書にある金色姫の話と同じ。おおまかな話はこちら>http://okaiko.hatenablog.com/entry/2012/10/31/113319 四度の眠の由来が抜けている。

# 後半はずいぶん無理やりな話になっているが、海のない栃木県に養蚕がもたらされた次第を海とこじつけようとした結果だろうか。

 

 

たかの休み(二回目の脱皮)

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 そろそろ二度目の脱皮です。たかの休みというやつです。「たか」は鷹という漢字をあてたり、竹と言ったりもします。群馬では竹箒を「たかぼうき」と発音する人がいたし、竹休みと書いても「たかやすみ」と発音したかもしれません。http://okaiko.hatenablog.com/entry/2012/10/31/113319

 お蚕さんが脱皮中に死んだように動かなくなることを「休み」とか「眠(みん)」とか言います。四回の休みには「獅子」「鷹(または竹)」「舟」「庭」と名前がついています。それはお蚕さんの守り神であるお姫さまの伝説と関係していますが、それについては上記のURLを読んでみてください。

 

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 この頭が黒いのは脱皮前のお蚕さん。

 

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 頭が白くなっているのは脱皮後のお蚕さん。

 

 孵化がいっせいにおこらなかった時は脱皮もいっせいには終わらず、成長にばらつきが出ます。そういう時はあるていど脱皮が終わるまで餌やりをひかえると良いそうですが、どのくらい絶食させていいかは悩みどころです。

 

 それは昔の人もみんな悩んでいたようで、江戸時代に信州のマイタ村の人が書いた『養蚕重宝記』という養蚕指南書にも、

>> 
四度のやすみまで上ゝ蚕、桑つけのしそんじにて五分のあたりなり。此桑づけのしそんじと申は蚕そろひたく桑くれる事手おくれになり蚕母の心え違ひなり。

<<

と書いてあります(意味がわかるように句読点を挿入して一部を漢字になおしました)。四度目の脱皮までうまく育っていた蚕が半数ほどだめになってしまうのは「蚕の成長を揃えたいと思うあまり桑くれが手遅れになったせい」だってことです。じゃあ、どのタイミングで与えればいいかは、この本にも書かれていないのですが、江戸時代の人も同じように悩んだと思うと、数百年の時を越えてやっと話の分かる人にめぐりあえた気持ちになります。

 

 うちのお蚕さんには夕方になったら桑をやろうかと思っています。

繭ハンドブック

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 著者は葛飾区の生まれで東京農工大学でヤママユガ科の生態を研究した人だそうです。この本には著者が集めた多種多様な「繭」の美しい写真が掲載されています。

 

 繭を作る虫はお蚕だけではありませんが、著者が天蚕(ヤママユ)の専門家だけあってお蚕関連のコレクションがすごいですね。クリキュラ、アナフェ、ムガサンなど、海外で糸として利用されている繭の写真もあります。

 

最初の脱皮

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 上は27日の写真です。孵化から三日目です。まだ毛が生えてます。葉っぱの食い痕に無数の糸がかかっているのですが、この写真じゃわかりにくいかもしれません。そろそろ脱皮します。獅子の休み(あるいは「しじの休み」)っていうやつです。

 下の写真は29日に写しました。脱皮が済んでいるのでもう毛が生えていません。

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 一齢〜二齢はあまりにも小さいので、毛が生えてるとかいうのも肉眼ではわかりにくいです。脱皮もわりとアッサリ終わってしまいます。