趣味の盆蚕

「しゅみのぼんかいこ」とは、盆栽を楽しむように小規模に養蚕を楽しむという意味で、ブログ筆者の造語です。略称は「ぼんさん」

お蚕さんの体の構造

f:id:chinjuh:20130617113745j:plain

 

 いちばん先端にあるダンゴっ鼻のようなものが頭です。

 

眼状紋(がんじょうもん)

 ここが顔に見えるので、頭だと思っている人が多いのですが、ただの模様です。お蚕さんは危険を感じると眼状紋が目立つように体をきゅーっと縮めます。生きものはにらまれるのを恐れますから、ネズミや鳥などに狙われた時に、そうやっておどかして身を守るのだと思います。

 

 また、お蚕は上の写真のように、腹脚・尾脚で立って、胸より上を高くあげるしぐさをよくします。こういうポーズをとった時に、眼状紋を顔に見立てると馬の立ち姿に見えてきます。反った胸は馬の首ですし、眼状紋より前の部分が馬の鼻面に見えるというわけです。

 そのため、お蚕さんのルーツを説明する昔話には馬と関係したものがよくあります。たとえば東北地方の『オシラサマ』や中国の『馬頭娘』などがそれにあたります*1

 

半月紋(はんげつもん)

星状紋(せいじょうもん)

 お蚕の背中にある模様です。前のほうを半月紋、後ろの少し小さいほうを星状紋といいます。難しいことを言うと、体の第五節に半月紋、第八節に星状紋が出る決まりになっています。

 月と星、どちらもよく見るとU字型なので馬の蹄(ひづめ)の跡に似ています。そのため、お蚕さんのルーツを説明する昔話では馬に蹴られた跡ってことになっています。『金色姫』や『衣笠姫』などがそれにあたります*2。わたしは蹄の跡よりも勾玉(まがたま)に似ていると思うのですけどね。

 

尾角(びかく)

 お蚕さんの尻にある角のような突起です。やわらかいので手に刺さったりはしませんし、毒もありません。特別なんの役にもたっていないと思います。

 尾角を持っている芋虫は、たとえばスズメガ科の蛾の幼虫などが有名です。そのなかでもセスジスズメの尾角は先だけ白くなっています。

http://www.chinjuh.mydns.jp/hakubutu/musi/suzme21.htm

 これはわたしが大昔に作ったサイトですが、上から三番目の写真がセスジスズメの尾角です。こんなふうに先だけ白ければ目立つので、敵が尻を攻撃している間に逃げるチャンスができるのかもしれません。

 お蚕の尾角はなんの役にも立ちませんが、もしかするとお蚕の遠い遠い先祖たちの身を守る道具だったかもしれませんね。

 

気門(きもん)

 気門は息をするための穴です。人間で言えば鼻の穴。お蚕さんの鼻の穴は体の両脇にあります。難しいことを言うと、体の第一節と第四〜十一節の両脇にあるので、全部で九対(十八個)あることになります。

 

胸脚(きょうきゃく)

 胸肢(きょうし)とも言います。難しいことを言うと、体の第一節、第二節、第三節に一対ずつ、合計六本の胸脚があるといことになります。

 胸脚は成虫になっても残る足です。

 

腹脚(ふくきゃく)

 腹肢(ふくし)とも言います。毎度難しい説明ですが、体の第六〜九節に一対ずつ、合計で八本の腹脚があります。吸盤のようにものにへばりつく足です。この足は成虫になるとなくなってしまいます。

 蛾や蝶の仲間の幼虫は、だいたい腹脚が四対(八本)あるのが決まりです。ただし、シャクガの幼虫(尺取り虫)のように腹脚が少ない例外もいます。

 

尾脚(びきゃく)

 尾肢(びし)とも言います。体の第十三節にある最後の足です。これも成虫になるとなくなってしまいます。

 

f:id:chinjuh:20130617111036j:plain

f:id:chinjuh:20130617110954j:plain

 

*1:ある娘が馬とねんごろになったことで父親が激怒して馬を殺して桑の木にぶらさげる。残った娘は悲しみの余り死んでしまう(あるいは馬の皮にまかれて姿を消す)が、娘の生まれ変わりとして馬に似た虫が桑の木にわいた、というような話。

*2:継母にいじめられた娘が厩(うまや)におしこめられ、馬に蹴られて死にかける話。

形蚕と姫蚕

 

f:id:chinjuh:20130617111036j:plain

 一口にお蚕さんと言っても、よく見ると模様に個体差があったりするものです。上の写真では右のお蚕には目のような模様(眼状紋)がありますが、左のにはありません。どちらも同じ親から生まれてきました。

 

 眼状紋がある蚕のことを形蚕(かたこ)、ないほうを姫蚕(ひめこ)と言うことが多いようです。こういうのは地方ごとに違う呼び名があるかもしれません。

f:id:chinjuh:20130617110954j:plain

 これは背中から見た写真ですが、右が形蚕、左が姫蚕です。姫蚕でも気門(息をするところ)には色がついてたりしますから、アルビノというわけではなく、単純に模様の違いだと思います、たぶん。

 

 お蚕さんは家畜(家蟲と言うべき?)なので、良い性質が出るようにかけあわせて品種改良されています。蚕糸試験場のようなところから買ってきた蚕種(卵)からは、だいたい同じ模様の蚕が生まれてくるようです。

 

 でも、その蚕を交尾させて二代目を作ると、別の模様の蚕が生まれてくる確率が増えます。きっと遺伝学的にどーのこーのという難しい理論が働いて先祖返りしてしまうんでしょうね。模様が違っちゃうということは、繭の質なんかも厳密に言うと親の性質をひきついでいないと思います。メンデルメンデルランランルー。

 

 なお、呼び名が姫だからといってメスというわけではありません。性別に関係なく姫蚕だったり形蚕だったりします。

そろそろ庭の休みです

f:id:chinjuh:20130612080525j:plain

 更新をさぼっている間に次の脱皮がはじまりそうです。四度目の脱皮は「庭の休み」とか「庭の眠り」とか言われています。前の脱皮から5日くらいたっていますし、よく見ると食べ残しの桑に細い糸がついています。桑をやればまだ食べますが、食べる量はぐっと減って、すぐに頭を空にむけてじーっと動かなくなります。これが休み(または眠り)で、やがて脱皮します。

 

f:id:chinjuh:20130612081040j:plain

 体長は50mmくらいです。孵化した直後は2〜3mmの消しゴムかすみたいな大きさですが三週間くらいでここまで育ちます。

 

f:id:chinjuh:20130612081215j:plain

 これで70頭ほどいると思います。だいぶ減らしました(カエルの口に入ったのです…)。最後の脱皮を済ませると爆発的に餌を食べるようになるので趣味で飼うならせいぜい50頭くらいにしといたほうが無難だと思います。

 

 お蚕を喜んで食べるいきものがいないご家庭では卵のうちに数を管理するといいでしょう。卵をどこで手に入れるかにもよりますが、20〜50個くらいの数でわけてくれるところもあります。

 

 

 

三度目の脱皮が終わったみたい

 三度目は舟の休みという名前がついてます。読み方は地方によって違うかもしれないけど「ふなのやすみ」ですかねー。休みというのは脱皮の時にお蚕さんたちが食べるのをやめて動かなくなるからなんですけど、その間餌をやる必要がなくなるので世話をする人たちも一休みできる事にも由来してるかもしれないです。

f:id:chinjuh:20130608074923j:plain

▲昨日(7日) 脱皮を待つ間、上を向いてじーっとしてます。頭の殻がはずれかけてるので脱皮がはじまることがわかります。

 

f:id:chinjuh:20130608074910j:plain

▲今朝(8日)の様子

今日のお蚕

f:id:chinjuh:20130605192509j:plain

 育ってます。

f:id:chinjuh:20130605192520j:plain

 この砂みたいなものはお蚕の糞です。

 

  江戸時代の養蚕書を読むと、お蚕の世話をする人のことを蚕母(さんぼ)と呼んでいます。女性の仕事だったからでしょう。そういえば祖母の家でも祖父は一番忙しい時期の桑取りを手伝うくらいで、ほかのことはみんな祖母がやってました。

 

 あまりにも昔のことなのでうろおぼえですが、祖母は養蚕をしない家からお嫁に来たようなことを言ってたかもしれません。最初はお蚕さんがこわくてさわれなかったと……いや、もしかすると別の人から聞いた話がまざっているかもしれませんが。

 

 最初は気持ち悪くてさわれなくても、世話をしているうちになぜかかわいいと思うようになるんだよって。やっぱり祖母から聞いたような気がします。まるまる太ったお蚕を手のひらにのせて、そんな話をしてくれたと思います。

 

 わたしは幼児のころからお蚕わしづかみでしたから、お蚕が恐いとか言われても、そんなものなのかなあと、かえって変な気持ちでした。

富岡日記

 『富岡日記』は長野県松代の旧藩士の家に生まれた著者が群馬県の富岡製糸に女工として入場し技術の習得につとめた日々をまとめた手記です。この時著者は十六歳でした。

 富岡製糸というと『あゝ野麦峠』のような話が有名なので、少女たちが命を削りながら劣悪な環境で働いているイメージが先行しますが、少なくとも開場当時は良家の子女が誇りをもって仕事をしていたことがこの本を読むとわかります。

 富岡製糸は日本でもっともはじめに作られた西洋式の製糸工場です。このような工場を日本各地に作ることが国策で決められていましたから、ここで技術を習った娘たちは故郷へ帰って指導的な役割を果たすようになります。

 当時の生糸産業の記録としても貴重ですし、幕末から明治にかけての日本人の心が生き生きと綴られている点でも好著だと思います。

 

【送料無料】富岡日記 [ 和田英 ]

【送料無料】富岡日記 [ 和田英 ]
価格:2,625円(税込、送料込)

 

 以下は気に入った部分の抜き書きです。

 信州は養蚕が最も盛んな国であるから、一区に付き何人(たしか一区に付き十六人)十三歳より二十五歳までの女子を富岡製糸へ出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供にでも上がるように思いまして一人も応じる人はありません。父も心配致しまして、段々人民にすすめますが、何の効もありません。やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、中には「区長の所に丁度年ごろの娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」と申すようになりました。それで父も決心致しまして、私を出すことに致しました。

 私も兼ねて親類の娘が東京へメリヤスを製しますことを習いに行きました時、私も行きたいと申しましたが、私より下に四人の弟妹がありまして、中々忙しゅうありましたから許しません。残念に思って居りましたところでありましたから、大喜びで、一人でも宜しいから行きたいと申しました。

 このあと、著者の親しい友人から、われもわれもと志願者が出て、とうとう十六人の女工さんが松代を旅立つことになります。

 

 河原鶴子さんは紫のメリンスの袴にやはり紫の羽織、赤のシャツ、お着物は縞。和田初子さんは黒縞呉絽の袴に同紋呉絽羽織、赤縞ネルシャツ、着物は縞。

 (私の服装は)これが実に珍無類、只今なら丁度ポンチ絵にでも有りそうな形で、どのようにまじめな人でも一目御覧になれば笑わずにはおいでなされますまい。父が辰年の戦争の時、松代藩を代表して甲州の城受取りに参りました時新調致したと申す黒ラシャの筒袖に、紺地に藤色の織出しのある糸織どんすの義経袴、無論紐と裾には紫縮緬が付けてありました。殊に父は二十貫目もある肥満なる人の着ましたものを、そのまま少しも直さず私が着しまして、例の義経袴をはき、赤スコッチのメリヤスを着込み、羽織は祖母から伝わりました真田公より拝領の打ちかけ黒縮緬五ツ所紋(わり洲浜、只今の男子方の御紋ほどの大きさ)、それを羽織に縫い直しまして、私がごくその頃裁縫が下手でありましたから、紋が有って居りませんと人が笑いましたと後で聞きました。

 このようないでたちで意気揚々と富岡へ向かいますが、いざ入場してみると気恥ずかしくなって普通の着物で最初の仕事についたと書かれています。

 当時のことなので移動は徒歩です。籠や馬はあったので疲れると代わる替わりに乗ったようです。馬は鞍の両脇に櫓を組んで二人一度に載せるものだったとか。江戸時代の資料でよく見かけるやつだと思います。明治の頃まであったのですね。碓氷峠にさしかかると道が悪くなり、それでも一行にとっては大した難儀ではなかったようですが「皆一生の思い出に草鞋をはきたいと申しまして大かたはきました」というのが少女らしくてかわいらしい話です。

 

 みな国から故郷の恥にならぬよう、人の後れを取るなと言われて来ていますから、ひっしで技術習得にはげみます。ところがあとからやってきた山口県女工がさきに糸繰り場に配置されて教えを受けているのを見て、悔しさのあまり全員で泣いたというのもたまらないエピソードです。

 また、休憩時間に故郷の盆踊りを披露する話などもおもしろい。今でこそ各地に盆踊りの習慣がありますが、この当時は盆踊りがあるのが名物になりうる時代でした。休み時間のたびに見せてほしいと乞われて、皆で踊るうちに大変な人気になったといいます。しかし、ここでも山口県の女工さんたちがライバルになります。彼女らは密かに練習をつみ、とうとうそれを披露して人気を奪うのです。機嫌を損ねた著者と同郷の少女たちは、頭が痛いの腹が痛いのと言って庭に出ることさえ拒否して寝ているしまつ。

 しかし私は皆に申しました。「どう見ても山口県の踊は高尚でもあり、このようなことでつまらぬ争いをしたところで何の利益も無いことだから、私はこれから見物して、決して国の盆踊は踊らぬ」と申しました。追々同意者ががありまして、これから後、信州の踊は止めました。皆さんはさぞ歯痒いと思いましょうが、このようなことで憎まれたり争ったりして、第一の業にまで障りましては両親に対しても済まぬと心付きましたから、山口県の方々に精力を奪われましても、私共は決して恥ずかしいとも何とも思いませんでした。今から考えましてもよいところで見切りをつけたと思います。

 時には辛いこともあります。著者の仲良しで、著者に次いで志願した少女が脚気になって歩けなくなる話。

「これから直ぐに私はお鶴さんをつれて帰国致したい、碓氷峠を越せば薬をのまずに全快すると国で申しますから、何とぞ願って下さい」

脚気はビタミンB1不足でおこる病気ですから、都会で白米ばかり食べているとかかりやすくなるのです。当時はそういう知識がないので江戸わずらいと呼ばれ、碓氷峠を越せば治る(田舎の食べ物に変わるから)というわけです。お鶴さんは西洋医に見てもらい、帰国しなくとも治ると言われ、そのまま場内で養生してどうにか歩けるようになります。国からお父さんが迎えに来て故郷に帰りました。

 脚気が出ることで毎日白いご飯を食べて暮らしていることがわかりますが、外にどんなものを食べていたかというと

 只今と違いまして上州の山の中で交通不便でありますから、生な魚は見たくもありません。塩物と干物ばかり、折々牛肉などもありますが、まず赤隠元の煮たのだとか切昆布と揚蒟蒻と八ツ頭などです。さすが上州だけ、芋のあること毎日のようでありますから閉口いたしました。朝食は汁に漬物、昼が右の煮物、夕食は多く干物などが出ました。しかし働いて居ますから何でも美味に感じましたのは実に幸福でありました。

 賄い方の怠慢ですえたものが出たこともあったようですが、場内を監督する偉い人が女工たちの食べ物にも気をつかっていたので発覚し、賄い頭がきつく叱られたということもあったようです。

 

 出てくる人たちの服装の描写がいちいち精密なのもたまらない。

 (皇太后陛下・皇后陛下御行啓の下見に来た)その女官の方が越後縮の絣のお帷子を召して、御帯はお下げ帯でありました。これは只今の方はご存知のない方もおありかも知れませんが、白の綸子でありまして、両端が一尺三四寸ほどがだきしんが入って太く六寸廻りほど御座います。それを結んで下げておいででありますから、見なれない者には中々珍しく思われます。お髪は昔の椎茸たぼより一際鬢が派って居ります。曲げは実に小さく、笄は一尺余も御座います。おしろいは真っ白につけておいででありましたから、場内の者残らず内々笑いました。

 女官たちを笑ったおかげで叱られてしまい、明日は福助さんのような人が来るので決して笑わないようにとクギをさされます。

 (御行啓のおりに工場の西洋夫人のいでたちを見て)あれが大礼服と申しますのか、胸と腕とは出しまして、白のレイスのような品に桜の花のようなる模様がありまして、その下にも同じような品で二枚重ね、一番下に桃色の服を着して居ります。その色が上まですき通りますから、その美しい神々しいこと何とも言いようがありません。裾は六尺ほども引いて居りました。そして白ビロウドのような帯を結んで居ましたが、丁度日本の男子のはさみ帯のように並べて立てたようにして居りました。顔には網をかけ、襟飾、腕飾、首飾を致しまして、帽子は白い羽根その他の飾が付きまして、美事なことは筆にも尽くされませぬほどでありました。

 

 その他、故郷に開場した製糸工場で、女工が釜場の男性と間違いをおこさないよう、注連縄をはりめぐらして、婦人が入ると釜場が汚れると言って女を遠ざけた話なども興味深いです。石川県金沢市小立野の小鋸屋という製糸場で、釜場に入ってきた女性と火たき工の男性が話に夢中になり、蒸気元釜が爆発して女工七人と工男が死に、怪我人も多数でたという事故があったそうです。遠ざける理由が女性蔑視的ではありますが、火たきが男子の仕事と決まっているので、女性を遠ざけるのが現実的だったんでしょうね。